Memento Mori

04:祓魔

家に上がて寝室まで向かい、メイと雑談しながら一緒に物置に収納していく。

「ひひん~きょうの晩ごはんを楽しみにしてていいよ、タル兄」
「おーメイちゃんが作ってくれるの?」
「ううん、ウイの方がね~ふん、喜べ平民よ!」
「ぷっははっ、偉い人の真似だかウイの真似だか。うん楽しみにしてるよ」

 家の人が気遣ってくれて今日の当番を色々と代わってくれた。料理とか掃除とか。明日は皆に料理を振舞うことになるから、今日のご飯を参考して何を作るか決めたい。

「これでよし……、ってあれメイちゃん、後ろになんかついてるよ」
 立ち上がろうとした時メイの襟首のところに小さな甲虫がついているのが目に留まった。黒い羽にいくつか白の水玉の模様が入った、テントウムシに似たような虫だ。

「なになに? むし?」
「そうだね、ちょっとじっとしてて」

 俺は取り除こうと手を伸ばすと、虫が羽をぴくっと開いて、中からさらに真っ黒な体が窺えた。
 ――虫の体って、こんなに黒い色をするものなのか?
 光を一切反射しなかったそれは黒というより暗闇を、底なしの穴を覗いているような
 虫は、水玉の模様から、あるはずがない歪な白い爪を伸ばし出す。

 それを見た瞬間、理解した。

「うわあっ!」
「ひゃ!?」

 俺はとっさにムシを床に打ち払って、白い爪を全身に覆い蠢く毛玉に見えるソレを見たメイが悲鳴を上げて足でつぶした。
 ぴちゃ、と小さな音がした後、メイが足を上げるとソレの元の面影はもうどこにもなく、どす黒いシミに成り果てた。

「うえぇ、イ、イヤ! イヤ!」
 メイはまたしもソレを潰し倒すように何度も足を踏み下ろしてると俺は我に返って彼女を阻止する。
「もう死んでる! 死んでるから!」
 メイは潰すのをやめると俺の懷に飛び込んできた。そのまま泣きついてくると思ったら、メイはずずと鼻水をすすりながら俺の肩を掴む。

「タル兄! 安心して、あたしが守ったから!」
 ええ!? 俺の心配してるの?
「ソレ触っちゃだめだからね! 食べちゃってもだめだからね!」
「た、食べないよ!? メイちゃんこそ靴を洗いに……」
「食べちゃったら、カンセンされて死んじゃうよぉ!

 カンセンされて、死ぬ。
 メイの言葉が耳に入って、一瞬にして手が震え出した。

「が、あっ」
 酸欠になったかのように体が過呼吸を起こし、ドクンドクンと動悸を強くしていく心臓あたりを握りしめたまま、地面に倒れ込んだ。

「タル兄……? どうしたの!? ねえ!」
 メイの声が遠くで聞こえる気がする。耳鳴りが、うるさい。
 異状を気付いたメイが泣きわめきながら俺の体を揺らしていると、寝室の外から慌てる足音が聞こえてきた。

「タルク? どうした!?」
 顔を上げるとベルクと門外で双子の片方であるウイが顔だけ乗り出して心配そうにこちらを覗いているのを、少し焦点がずれる目で目視した。
 ベルクが俺の体を支えて、呼吸をゆっくりするよう指示しながら背中をさすってくる。
 そんなの、俺が知りたい。
 急に自分の体に現れた異状に思考が追いつかないままただ言われた通り酸素を脳へと送るよう深呼吸する。

「タル兄、急にびくびくして、倒れたのぉ!」
「俺が分かる? 胸が痛いのか?」
 呼吸をゆっくりしているとだんだんパニックが収まってきたようで、俺は頷いた。

「もう、大丈夫だ。ただ瘧魔が出てきて、そんでびっくりして……」
「瘧魔!? どこだ」

 メイが「あそこ、死んでたの」と黒いシミに指をさすと、ベルクは「タルクを見てて」と言ってまた寝室を出て行った。何事かと思ったら彼はすぐ戻ってきて、両手にはいくつかの道具を抱えていた。彼は中にある壺を雑巾に何らかの液体をかけ、シミのところを丁寧に拭いていく。何度も繰り返して、こちらまでアルコールの匂いが強く漂ってきた時でも、ソレは薄くならなかった。
 ベルクが舌打ちすると、今度はバールのようなもので床の木板を思いっきり破壊した。

「二人とも、怪我はないかい?」
 新しい木板を手に取って修繕をしながら問いかけるベルクは俺とメイが無事だと伝えると彼はほっとして作業に続く。
「ソレ、どうやって死んだ?」
「あたしが踏んだの」
「あ!? 瘧魔に近づくなってあれほど言ったろ!」
ベルクがメイの話を聞いた途端キッと目を吊り上げてメイに雷を落として、彼女の靴を脱がすと足をじっくりと何かを確認するように観察する。

「感染されたらどうする!? 今度あったらちゃんと大人を呼べ!!」
「うえぇ、うん……」
「全く……、ほら、この布を燃やすからばあちゃんを呼んでくれ、タルクはそこで休むんだ」
「いや、俺は大丈夫って」
「ダメだ。先のどう見ても調子が悪いだろ? ただでさえ頭のキズが治ったばっかなのに。寝てなさい」

 ベルクが俺をベッドで横になるよう命じて、メイが靴と汚れた布を手に持つと出ていった。ウイがベルクを手伝おうと入り、俺が立ち上がろうとするのを阻止する。

「寝てて」
 二人揃って釘を刺してきて、俺は仕方なくベッドに座り、まだかすかに震えている両手を注視する。
 感染。瘧魔によってもたらし、ここの人々に恐怖を植え付ける謎の病気が存在するという。

 ひょっとして、タルク、お前がそうなのか……?
 女神に告がれた「死んだばかりの体に移した」という言葉を浮かべて、茫然とした心地で時間を過ごしていく。

* * *

 気がづくと、外から騒がしい声と音がした。

 キンッ、キンッと、何かが力強く打ち合わせて響く乾いた音がした。
 なんの音だ?
 ベルクに尋ねようとしたら、彼がすでにいなくなったことに気づく。
 ドンッ、ドンッと、地を踏みしめる複数の足音が響いた。
 俺は気になってベッドを降りて窓を開けて外の様子をうかがうと、それが唐突に、始まった。

「陰に潜むものよ、現れ給え。禍つものよ、退き給え」

 そこには、ベルクを含む数人の村人が列に並べて、ある人は木の棒を、ある人はトーチを手に持ち、畑道を歩きながら木の棒を強く叩いてる姿があった。彼らは木の音と足の音を何度か交互に響かせると、呪文じみた言葉を張り上げる声で唱え始めていた。

 何を言っているのか、すぐには分からなかった。ただその音と声の圧にはただならぬ気配を感じていた。
 沈みゆく太陽の中、虫の鳴き声をもかき消されるほどに、繰り返される言葉が異様な存在感を放っている。
 突然、行列の最後尾を歩く人が何かを見つけたようで、慌てた様子で畑の一角に指さすと、皆が素早くそこへと一斉に囲む。心なしか、畑の土壌が黒かった気がする。

 中心に立った女の人がトーチを挙げて空で文字を書くような動きで回すとともに一同は道具を下ろし、手を両側に広げ、手のひらを上にして口を揃えて唱える。

「四大元素を司る偉大なる自然の御霊よ、願わくは我に御力を貸し与えたまえ。
 理から外れし魔に浄火を、奔流を、狂嵐を、埋葬を。
 汝が創りし尊ぶ大地を穢し荒らす不淨なるものを、御身の名の下に大いなる力を以て裁きを与えん」

 呪文を口にした一人一人の顔が松明の光に照らされて、無表情の顔も、不安そうな顔も、険しい顔も、皆同じく赤く染まっていく。
 女の人がトーチを下げると、ベルクが懐に抱えていた大きな水瓶を畑に向かって中身の液体を撒いた。それを合図に女がトーチを畑へと放り込む。

 刹那にして炎がすざましく燃え上がる。

 ドクンッ。
 またしも、心臓をわしづかみにされたかのような苦しさがした。
 今度は、こっちか。

 思い出そうと思えば目蓋の裏に映ってしまう、死にかけた時の記憶。あの赤だけは、どうしても忘れそうになかった。
 視線がわずか彷徨い、それでも気になると移さずに見つめる先に、人々は炎に集中するように両手を前に出した。
 口には、畑の中にいる何かへ呼びかけるような、あるいは、呪うような口ぶりで、

 「土よ、闇を穿ち砕け。
  風よ、邪気を吹き払へ
  水よ、汚穢を清め流せ。
  火よ、亡骸ぼうがいを焼き尽くせ」

 勢い良く、しかし不自然なほどに火の粉を一切周囲に飛ばさない高く燃え聳える烈火によって照らされた村民の顔は鬼気を迫っていて、畑の中に潜む何かを燃え尽くすまで、村民は呪いを復唱し続ける。

 どさっと後ろのベッドに倒れ込むように座り、視線を窓から天井へ移す。腕からゾワゾワと鳥肌が立っていて止まる気配がない。

 鬼とか化け物とか、会ったこともないからないのと等しかったと、思っていた。
 だが、瘧魔は違った。
 見える、触れる。
 触ると、感染されかねない。そして――死に至らされる。

 そんな実在する化け物とともにこの世界で生きることを拒むように、村民は感染対策を取り、祓魔儀式まで行っていたのだ。

 無意識にムシを打ち払った手を服に擦りつける。
 俺はこの世界に一歩踏み込んでしまった。これ以上はもう、嫌でも化け物と関わりながら生きていくしかない。
 何もかも自分で選んだはずだ。

 「受け入れろ……」

 そう自分に言い聞かせながら横になると、頭の上から物音がして、頭部から、小さな子供の手の触感がした。
 目を上げると、ウイがただ無言で見つめてきて、無表情で頷いただけだ。
 まだいたのか。俺の行動も独り言もウイには全部見ていただろう。彼女が自分なりに慰めてくれたことに、俺は努めて笑顔で返した。

 村人の唱えた声はいつの間にか止んでいた。ギイーギイーと、虫の鳴き声が聞こえてくる。生気を感じたそれに、安堵の吐息を漏らした。

* * *

 目が覚めるとベルクが帰ってきた。
「ベルク、もう大丈夫? 瘧魔は……」
「ああ、外にはもういないよ」
 ベルクが俺の側にすとんと座り俺の肩に手を置く。彼の顔はいつの間にかアイツとそっくりになっている。
「後はお前が家を出てればいいんだ」

「はっ……!」
「タルク? 調子どう?」

 驚いて身を上げると、隣でシニヤさんがやや心配そうにこっちを見つめている。
 しまった、いつのまにか寝てしまった。

「ご飯できてるけど、運んでこようか?」
 させるわけがないので俺は慌てて起き上がって一緒に食べると伝えて、共に寝室を出る。一家団欒での食事にはどうしても交ぜたかったのだ。

 家族が雑談をしながら食事している側で、俺はひそかに耳を立てながら飯を口に運ぶ。

「稲が一本やられたよ、茎が真っ黒」
「あれ燃やしちゃえばいいんじゃないのぉ?」
「それだけじゃないよメイ、土まで入ってるかどうかも分からないから、このくらいは全部処分するんだ」

 先ほど前に行った祓魔儀式がまるで日常茶飯事のように、食卓での会話に溶け込んでいる。

「あーあ、まいったわね。メイ、怖くなかった?」
「なんの、あたしが倒したんだよ! へっやー! ぴちゃ!」

 何でもなさそうにメイはすっかり元気になった。俺だけがまだわだかまりから解放されないまま。

「さすが我が妹よ」
「メ.イ、まだ叱られ足りないみたいだな? 今度またやらかしたらめし抜くぞ」
「イーヤ!」
 ベルクに窘められて、メイはプルプルと頭を揺らしながらウイにもたれ掛かる。
「こぉら米で遊ぶなー! ……ん? タルク、どうした? 大好物のトゥトゥスだぞ」

 双子がはしゃくところを苦笑交じりに見つめていたベルクに急に話しかけられて、俺は我に返ってトゥトゥスに目をやる。
 メイが言ってたのはこれのことか。毛を毟られて串焼きにされたその見た目は田ネズミを連想させて、俺は口元を引きつらせながら遠慮がちに「みんなは食べないのか?」と尋ねてみた。

「あたしが捕まった、ありがたく食うがいい」
「そうだよぉ、いっぱい食べて元気になれ」
 ウイが恩着せがましく言うと双子がテンション高めに肩を組んで左右に揺れながらスプーンで指してくる。
 いや、これ本当に食べて大丈夫なのか? 衛生面的に。
 断りづらいので俺はしぶしぶトゥトゥスを一口齧ってみた。すると旨味が凝縮された肉汁が口内で迸り、予想したジビエの臭みがなくすんなりと喉に飲み込むことができた。
 うっそ、美味い……!
 俺はもぐもぐ食べながら、家族が再開する話題に耳を傾ける。

「そういえば母さん集会所で何の話してた?」
「んーそれがね、ヴィルエイガ商会は近頃バホティエから撤退するからこっちの取引もやめるって。あそこ治安悪化しているからとか」
「えぇ? うんーまあ噂には聞いたけど、皆同じようなものじゃないか? なんか、建前に聞こえるなあ」
「町の維持費が増えたからじゃない? お偉いさんたちも余裕がないかしら」
「ケッ、だからそろそろ赤染めやめない?って俺毎回集会所で言ってたし。『災厄』の後売上が下がりっぱなしじゃん」
「あんたいつもそれでメイジーさんと揉めるんだから。はぁ、こればかりはイムリちゃんに任せないとね」

 シニヤさんとベルクが喋った周りの現状を、タルクの記憶と照らし合わせながら俺は思索に耽る。

 赤染めという、ここで栽培している植物から取った汁で赤く染めた布は発色が鮮やかで、偉いさんたちの間に売れ行きが良かったため、ここにいたぬしさま――領主か、の大事な収入源だったらしい。その領主が異変体を倒しに参軍したきり、帰らぬ人となったけど。
 侍従の一部は領主の遺産を巻き上げて逃げ出し、メイジーさんを含め、残った者たちが村の長老らと結成したのが今の集会所だという。
 ただ、元々布の販売で得られた利益は領民に還元することは少なく、加えて年貢の義務もあったため、農村自体は裕福な状態とは言えなかったので、メイジーさんを筆頭に集会所の構成員は自治を機に奮発して一攫千金を狙っただろう。
 しかし災厄以降不況が続いているせいで、安定した取引先を掴むのは大変だと、商売の仕事を任されたベルクの妻であるイムリはそれであちこち飛び回っていることから窺える。

『災厄』――かつて遠くの南方にあったベリオス帝国が、女神が脅威視している異変の個体に滅ぼされたという悲惨な出来事によって、この村まで影響が及んでいるのだ。

 聞くだけ聞いて黙り込むのも何だか気まずいので、俺は家族に話を合わせてみる。
「町の市場で売るのは、できないかな?」
 俺の発言にベルクとシニヤさんが少し意外そうに目を丸くして、問いかけてきた。

「あそこは貧乏人ばかりだからうちの布は売れないって却下されてるぞ?」
「布自体はきっと需要があるだろう? 赤染めは……季節の行事に合わせて出店するだけにして、普段売るものは染料の配分か、布の質地を変えて、一般人も買えるような品にするとか」
「そうなると、町の同業組合に出店の同意をもらう必要があるわね、農作物の資格は通じないかも。結局集会所の皆が動いてくれないと……」

 俺の提案にシニヤさんはやや困った様子で首をかしげる。でも言い換えるとそのメイジーさんが頷けばどうにかなれるかもしれない。

「まずは収入源だけでも確保しておきたいけどね、染色工房の経営にも金が要るから、職人が抜けるとメイジーさんも困るんじゃないか?」
「だな。この前、イムリが質のいい糸の出回りが減ってるって、隣村の織工房もあんまり仕事を振ってもらえないって言ったじゃん。このままじゃ共倒れだぞ?」
 ベルクがそう言ったところでニヤついた顔を俺に向けてくる。

「しかしまあ、タルクっていつもこの手の話になると黙り込むのに、いつから関心を持ったん?」

 ……あれ、もしかして黙り込んだ方が正解だった?
 自分で掘った穴に落ちた気分に陥りながらなんとか話を繋げる。
「ははっ、一応自分の意見をってやつだね。そうだ、新しい商品として手ぬぐい作ってみたらどうかな? これくらい小さいやつ、原価を抑えられるし、自用でも贈物でもうってつけ。模様をつけて選択肢を増やせば客は寄ってくるはずっ」

 そうアドバイスをした途端、シニヤさんが更に目を大きく見開いて、ベルクはニヤけた顔を深めて、二人は食いついてきた。
「悪くない提案だ、タルク。お前浪漫あんじゃん! なんだ? 贈りたい対象でもいたのか?」
「驚いたわ。タルクもついに結婚に興味を持つようになったのね。ずっとそんなそぶりもなかったから私、諦めてた」
 ……なんでそうなる!!?
 話がまるで見えなくて当方に暮れた俺にベルクが「はは! 冗談冗談!」と一笑して俺の肩を叩いた。
 えっと、つまりハンカチを贈ることにプロポーズ的な意味があるって解釈していいかな。
 俺は肩を竦めて食事の戻ることにした、これ以上喋らない方が身のためだ。

「もぐもぐ。んーイムリといえば、そろそろ帰ってくるんじゃないか?」
「やった! ママ帰る!」「母上帰還なさる?」
 隣で食べさせ合いっこしてた双子がベルクの知らせに興奮気味で顔を向けた。

「そうだ。おっきい仕事終わらせてご帰還だぞ」
「お姉ちゃんも帰る?」
「……どうだろうな。あいつ盗賊王なんか目指してるから、まだまだ先かもな」

 親子三人の会話を聞いてると聞き捨てられない言葉に噴飯しかけて、水を飲んで平静を装う。
 お姉ちゃんというのは、タルクの妹に当たる存在だと思い出したところで、内心でツッコミのポーズを放つ。
 なーにがトウゾクオウだよ!?
 妹――サリィは活発で冒険心に溢れ、家にいない方が長かった彼女はこんなご時世になってから家のことも聞かず飛び出したらしい。今、どうしてるかな。

「あのバカの話はやめて、ご飯がまずくなるから!」
 シニヤさんがふんすと頬を膨らませてご飯を運ぶスプーンを速めた。どうやら相当喧嘩したようだ。

 ――まずいな、これじゃ切り出すのは難しいかも。家を出るのを。
 やや焦り出した気持ちを抑えながら俺は家出の名目を考える。
 農村生活で労働力は多分何よりも大事だ。イムリは留守がちでサリィはいない。ベルクは双子の面倒を見ないとだし、シニヤさんは仕事以外に家の代表として集会所の呼びつけにも応じないといけない。彼女の夫は、タルクの記憶にはいなかった。多分随分前に姿を消しているのか、亡くなってるのか。
 こんな状態で、どうやって家を出ろと?

 顔を上げると。家族が時に笑い声が交じって他愛もない会話をする姿が目に入った。怒鳴る声も食器を叩き付ける音もなく、程よい賑やかな風景に思わず食事を取る手が止まる。

 ――いっそのこと、ここで。

「タール、聞いてる?」
「ごめん、なに?」

 シニヤさんに話しかけられて我を返る。
「先の話、冗談じゃ済ませないわよ。結婚相手、そろそろ見つけられそう?」
「へえ?」

 いきなり鈴木さんと同じこと言ってきたから、びっくりして拍子の抜けた声が出てしまう。
「へえ、じゃない。本当に考えてるならお母さんも手伝うよ?」
「母さん、か?」
「もちろんよ、」
 にしっと頬杖をついて笑う彼女の仕草は、意外にも実母に似ていた。それにつられて俺も頬を緩めると、
「息子のためだもの」

 にこりと口にした彼女の言葉に、自分の笑顔が凍っていく気がした。

 「ありがとう、考えておくよ」とだけ伝えて、空になった食器をまとめて厨房までやや早足に運ぶ。
 素早くたわしで皿をこすり付けて洗っていると、ふっと先ほど見た夢の光景がぼんやりと浮かびかけて、俺は目をキツく閉じて額を抑える。

 俺は、違う。
 君の息子の体を乗っ取った、恐怖の対象でしかない、得体の知れない野郎だ。

 ぽたと、水が滴った。皿が滑り落ちそうなところに力を込めて掴む。

 ここは、俺がいていい場所では、ない。

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